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東京地方裁判所 昭和33年(ワ)7376号 判決

原告 金仁玉

被告 志賀利治

主文

1、原告の請求を棄却する。

2、訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金八五万円およびこれに対する昭和三三年五月二四日以降完済にいたるまで年六分の割合による金員を支払わなければならない。訴訟費用は被告の負担とする」との判決及び仮執行の宣言を求め、その請求原因として、被告は昭和三三年三月二三日訴外呉奇芳に対して、金額一〇〇万円、満期昭和三三年五月二三日、支払地、振出地ともに東京都中野区、支払場所大同信用金庫東中野支店の約束手形一通を振り出した。

原告は訴外呉奇芳から右手形を拒絶証書作成義務免除の上譲り受けたのでこれを満期に支払場所に呈示して支払を求めたところその支払を拒絶された。

よつて被告に対し右手形金の内金八五万円およびこれに対する満期の翌日である昭和三三年五月二四日以降支払済みまで年六分の割合による利息の支払を求める。と述べ、被告の抗弁事実中本件手形が被告主張の如く訴外関本初哉の強迫によつて振出された事実、又被告が右手形を振り出す際意思の自由を奪われ、精神混乱の状態にあつたとの事実、原告が本件手形の悪意の所持人であること、原告の本件手形の裏書取得が訴外呉奇芳からのかくれたる取立委任裏書である事実はいずれも否認する。又、原告が訴外呉奇芳と別懇の間柄にあるというだけで本件手形の振出事情を知つていたと推定することはできない。その余の事実は不知。なお、強迫による取消をもつて善意の手形所持人にも対抗し得る旨の法律上の主張は争う。かりに被告主張の如く訴外呉奇芳の被告等に交付した金員が不法の原因によるものであつたとしても、被告等は給付を受けたものを任意に返還することを約したものであり、民法第七〇八条は、かかる約定までも禁止する趣旨ではなく、更に又これが同法第九〇条によつて無効と解することもできないから被告の主張は理由がないと述べ立証として甲第一号証を提出し、証人近藤善孝、同呉奇芳の各証言および原告本人尋問の結果を援用し、乙第三号証の一、二の成立を認め、同第一、二号証の成立は不知と述べた。

被告訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」旨の判決を求め、答弁として原告主張の請求原因事実は総て認める。しかしながら右主張の約束手形はつぎのような事情で振り出されたものである。即ち、被告は以前より明治大学付属中野高等学校の教員の職にあるものであるが、本件手形の受取人である訴外呉奇芳は昭和三三年一月頃その子女数名をいずれも正規の方法によらないで、有名校への入学を得ようと企て、所謂裏口入学運動及びその斡旋方を訴外関本初義に依頼し、その費用として一〇〇万円を同訴外人に交付した。

訴外関本初哉は更にこれを被告に依頼し、右呉奇芳の長女および次女を青山学院、長男、次男、三男を慶応義塾大学の附属学校へ新入あるいは転入学させるための運動を促し、その費用として同訴外人が訴外人呉奇芳より受けた一〇〇万円の中より二回に亘つて合計六二万円を被告に交付した。しかしその内金二〇万円については後日慶応義塾大学関係については訴外関本自身において運動するとの理由で同訴外人より返還を求められたので被告はこれを同訴外人に返還し、結局四二万円の運動費を以つて右依頼を引き受け、爾来前記学校への入転学運動に奔走し、かつ、関係方面に尽力したが、その結果はいずれも不成功に終つた。

(一)、ところが、右不成功の結果について、訴外関本初哉は被告を昭和三三年三月二十日頃同訴外人の事務所に招致し、訴外呉奇芳同席の上、被告に対し、この責任は専ら教員たる被告に存するのであるから訴外呉奇芳が入転学の費用として出捐した一〇〇万円とこれに対する利息および入学不成就により精神上の打撃を蒙り、就労し得なかつた間の訴外呉の損害金五〇万円合計一五〇万円の賠償を要求し、額面一〇〇万円と五〇万円の二通の約束手形を訴外呉奇芳に宛て振り出すべきことを迫つた。被告は交付を受けた四二万円は既に依頼の趣旨に従つて費消した旨を説明してその振出を拒絶したところ、訴外人関本は被告に対し「もしこの手形の振出に応じなければ明日の新聞の冒頭に中野高等学校の教師が入学詐欺を働いている旨の記事を掲載してやる。そうすれば君は警察に挙げられるだろう」と申し向けて極度に被告を畏怖させた結果その意思に反して支払能力も義務もない被告をして右二通の手形に振出人としての署名をなさしめ、かつ、右強迫者関本も振出人である被告の連帯保証人としてこれに署名を施して訴外人呉奇芳に交付したものである。その後右二通の手形金中六五万円は訴外関本において弁済したとの理由で右関本の署名を抹消し、残額八五万円については専ら被告に対し、その主張の本件手形を以つて本訴請求に及んだものである。

そこで被告は昭和三三年一一月一〇日本件第二回口頭弁論期日において原告に対し、本件手形は前記の如く訴外関本初哉の強迫によつて振り出されたものであるからこれを取消す旨の意思表示をした。なお右意思表示は右手形の取得者である原告に対してこれをなしても有効であると解するから、原告が善意の手形所持人であるとしても被告は民法九六条の法意により、被告に対し右手形行為取消の効力を以つて原告に対抗し得るものと解する。

(二)、かりに右主張が理由ないとしても、被告は昭和三三年三月二〇日前後頃訴外関本より前記のような強迫を受け更に又同訴外人より「目下自分は呉奇芳の家を三千万円で売却方を依頼されているが、それが売れれば手数料として三〇〇万円位い入るのでこの手形も落せるが、君がもし振出に応じなければ呉は表に車を待たせてある、直ぐ君の学校に押しかけて行く、華僑連合会も後押してくれるから校長も只では済むまい」等の言辞を以つて害悪を告知され被告はその要求に驚愕するとともに恐怖を感じ、更に教員として受ける月収二五、〇〇〇円以外には収入も資産もなくかりに新聞に掲載され警察に検挙されるときは一家の破滅を招来するであろうことを予想し、結局署名を応諾するか一家の破滅か岐路に置かれた結果全く意思の自由を奪われて精神混乱状態に陥入り本件手形の振出人欄に署名したものである。この事実は後日被告が手形満期における決済を憂慮して遂に心因反応症に陥り同年六月以降入院加療中である事実に徴しても明かである。従つて本件手形行為は形式的には存在するけれども実質的には被告の意思の自由が奪われ、精神混乱心神喪失状態のもとでなされた無効のものであるから、この点においても被告は同手形金支払の義務がない。

(三)、更に又、被告が訴外関本を通じて依頼を受けた前記入転学の運動は正規の試験によらないで学校当局者に対し裏面運動をなし、いわゆる裏口入学の許可を得ようとするものであつてかかる行為は公の秩序善良の風俗に反する行為であり、訴外呉奇芳が出費した運動費は右の如く不法の原因のために給付したものというべきであるから訴外呉奇芳はその返還を被告に請求し得ないものであり、その返還を約して、返還金支払のためになされた本件手形行為は民法第九〇条により無効のものである。したがつて以上の意味でも本件手形金支払の義務がないものである。

而して、原告と訴外呉奇芳とは古くから金員貸借をなし極めて懇意の間柄であつて同訴外人より原告は本件手形の裏書譲渡を受けたものであるが、その際苟しくも額面一〇〇万円に上る手形の取得にあたりその成立事情を裏書人である訴外呉に質さない筈はなく、原告は以上(一)乃至(三)の各事情を知悉しながら取得し、被告を害することを知つて本件手形を取得したものであるから、その理由からも以上(一)乃至(三)の事由を以つて原告に対抗し得るものである。

(四)、かりに原告が右各事情を知らなかつたとしても原告の本件手形の裏書取得は、裏書人である呉奇芳からのかくれたる取立委任裏書によるものであるから被告は叙上の(一)乃至(三)の各抗弁を以つて原告に対抗し得るものである。と述べ、立証として、乙第一、二号証、同第三号証の一、二を提出し、証人、志賀さだ子、同矢島貞司同田島敬造の各証言および被告本人尋問の結果を援用し、甲第一号証の成立を認め、その成立事情は抗弁中の主張のとおりであると述べた。

理由

一、原告の主張する請求原因事実は当事者間に争がない。

二、そこで、被告が原告主張の本件手形を振り出した事情をみるにの、証人呉奇芳、同志賀さだ子の各証言及び被告本人尋問結果を綜合すると、被告において抗弁で主張する頃訴外呉奇芳が扇川豊山こと関本初哉に対し右抗弁で被告の主張するように子女五名を私立学校に入、転学させるように依頼し、被告は私立中学校の教員であるところから私立学校へのいわゆる裏口入学の事情に通じているものとしてさらに右訴外関本の依頼を受け、さらに訴外呉からもその依頼を受けて訴外関本を通じ訴外呉の提供した約六二万円の運動資金を受領し、そのうちの若干を訴外関本に返還した外になお若干を費して右運動をしたが、すべて失敗に終つたところ、訴外関本は訴外呉から右運動資金等として既に約一八五万円を受領していたため、訴外呉から強くその返還を迫られ、被告に対しその学校教員として前記裏口入学運動に干与した弱味を指摘し、被告と共同の責任として訴外呉に同人に対する右不成功によりその蒙つた精神的慰藉を含めて一五〇万円の返還を約し、その支払方法として本件手形金額一〇〇万円のものの外に金額五〇万円の約束手形一通合計二通の手形を被告と共同で振り出したものであることが認められ、この基本的な事情は原告も強く争つていない。

三、被告が右手形の振出人となるについては被告がその抗弁で主張するような強迫を受け、或は心神喪失状態になつていたかをみるのに、証人志賀さだ子、同矢島貞司、同田島敬造の各証言及び被告本人尋問の結果によれば、被告は学校教員で格別の資産も収入もない生来小心な者であり、訴外関本は強引かつたくみに人心を動かす術を心得、被告は右運動をしたり手形振出に応じた頃右訴外人のもとに出入りして同人に心服し、右裏口入学運動では同人に利用されたものらしいこと、訴外呉も訴外関本にたくみに詐されて前記運動を訴外関本に依頼し、前記多額の運動資金を渡して、金銭的にも精神的にも被害を受け、右運動の不成功を知つてかなり強く右訴外人に運動資金の返還を迫り、訴外関本を窮地に追い込んだらしいこと、したがつて、訴外関本もその強引な説得力で被告にその小心につけ入つてかなり強く右返還について共同の責任感を起させたこと等を推察し得られるが、他面被告本人尋問の結果によれば、被告自身始めから前記裏口入転学運動をすることにやましい思を感じていて、その不成功に終つた責任感とともに別に教育者としてきれいに後始末をする考もあり、たまたま訴外呉がその所有の土地、家屋売却あつせん方を訴外関本に依頼しており、そのあつせん料として約三〇〇万円位を訴外関本が収益し得られ、それで容易に支払資金が得られる見込があると訴外関本が言つたことを信じ自分の支払能力をそれ程深く考えないで右訴外人とともに前記手形二通に振出人となつたものであることも認め得られるので、被告が自ら受領した前記運動資金の額を遥に超え、その支払能力の及びそうもない前記二通の手形の振出人となつた点において一般の利害の観念に反し、平静な判断力に欠けたことを推察し得るものを全く否定し得ないとはいえ、右振出人となつたのは専ら訴外関本の強迫によるものであることか、精神混乱、心神喪失の状態でそうなつたのであるかとは一概にいい難く、この点の被告の抗弁は採用し難い。

四、ところで、前認定のいわゆる裏口入転学の運動は訴外呉奇芳の証言及び被告本人尋問の結果を綜合すれば要するに当該各私立学校の当局者に金銭的利益を与え、その学校の正規に定められた教育及び経営方針にそむいて入転学の許可をさせようとするもので、このことは依頼者の訴外呉も承知していたものであると思われ、私立学校におけるこのような入転学許可は必ずしも直ちに犯罪行為を形成するものとはいえないにしても、ことは教育に関し、かつまた前認定の各学校への入転学希望者数は常に所要定員数を超えていることは当裁判所に顕著であることをも併せ考え、当該私立学校の利益のみならず社会全般の公序良俗に反することであり、その運動資金の授受、その運動が不成功に終つた場合の運動資金の返還或は依頼者への損害賠償等も同様公序良俗に反し、これ等のことを含め右返還及び損害賠償についてたとえ任意に契約をしたとしても同契約も右同様であつてその契約の履行について裁判で国家が保護を与えるべき筋合のものでなく、その契約の履行のために振り出された手形金の支払についても同様に解すべきである。

五、しかし、右の結論は被告の契約不履行を正当化しようとするものでなく、右のとおりただ国家がその契約の履行を強制しないという消極的な意味に過ぎないのであるから、同契約の履行のために振り出された手形の善意の取得者に対しては別個に考へるべきであるところ、証人呉奇芳、同志賀さだ子の各証言、原被告各本人尋問の結果を綜合すると、原告の訴外呉とは数年前からパチンコ遊戯場経営の同業関係で懇意でありかつ、金銭の貸借をし合つて来ていること、訴外呉は資産信用において一〇〇万円ないし二〇〇万円の支払に支障のない事業家であること、原告は本件手形の不渡直後頃被告方を訪ねて本件手形振出の前認定事情、被告の支払能力等を被告からも直接聞いたこと等が認められ、しかも原告はその本人尋問において訴外呉に対する貸金の返済として本件手形を取得したが、同訴外人の支払能力を信用して右取得に当り振出人被告等の資産信用力を調査しなかつたと供述しているのに、あえて前認定のとおり支払能力にとぼしい被告に本訴を提起する廻り途を選んでいることに不審の点があることを併せ考えると、原告が本件手形を貸金の返済として取得したとする右供述内容を否定すべき証拠は他にないけれども原告はむしろ前記認定の本件手形提出事情を含め被告を害することを知りながら同手形を取得したものと推察し得る根拠があるとせねばならず、これに反する原告本人尋問の結果は右のとおり不審の点があつて採用し得ないので、被告は原告に対しても前記結論を以つて対抗し得られ、原告をいわゆる善意の取得者としてこれに右結論と別な考方を及ぼし得ない。

六、以上のとおりであるから、他の抗弁事由について判断するまでもなく原告の本訴請求を失当として棄却することとし、民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 畔上英治)

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